PeacebycycleOne Ore One Heart 〜 From Bangalore to Lahore インドの子どもたちも、パキスタンの子どもたちも戦争ではなく、平和を願っている〜それを肌で強く感じたPEACEBYCYCLE(以下、PBと省略)。インドの子どもたちから託されたパキスタンの子どもたちへのラブレター。「私たちは同じインダス文明を分かち合う兄弟・姉妹」「私たちは友達」「お互い闘うことはやめよう」国境を越えた親愛が紙の上で交わされる。平和を願う、戦争に反対する、そんなシンプルなメッセージはこの両国間では大きな意味をなす。11月26日に起こったムンバイでの大規模なテロの後、私たちが想像するはるか早くに「戦争」「軍事行動」といった言葉がメディアで飛び交い、両国で緊張が走って現在に至る。 ボーンフリーアートスクール(Bornfree Art School)は、前代未聞の夢の平和自転車ラリー“PEACEBYCYCLE”に出かけた。35人、そのうちの3分の2は元児童労働者でありストリートチルドレンである。33日間、2869キロ、8州を自転車で横断。始まるまでは誰もこれを実現させることができるとは信じていなかっただろう。2008年11月1日、南インドのバンガロール市内にあるマハトマ・ガンジー銅像の前でPeacebycycleは旗揚げされる。目標は一日100キロメートル。目的はひとつ。軍事費を減らし教育費を増やし、インド・パキスタンの友好平和を実現させ、全ての子どもたちの教育の権利を保障する、である。 印パ分離の歴史 なぜ、インドとパキスタンはいがみ合わなければならないのか。PBを始めてからたくさんの疑問が沸いてきた。子ども時代からパキスタンに関して子どもたちは何を学び、何を耳にし、感じてきているのか。この疑問は一言では語れず、歴史の奥底に触れなければならない。世界文明の発祥の地、インダス文明を分かち合った人たち。1947年8月15日を皮切りに二つの国へと分かれた。「イスラムの国」と「ヒンズーの国」という区切りのもと。その分離の際、何百万という人の血が流れ、殺戮が繰り返された。女性は誘拐、レイプ、殺害、別の宗教の男性と強制結婚をさせられたという。また“名誉を守る”ことから集団自殺、家族の手による自決が行われた。印パ分離の歴史には人々の嗚咽と戦慄が封印されている。その歴史を理解ぬきには今日の印パ両国の緊張の鍵は見えてこない。 ルート 2869km PEACEBYCYCLEのルートは以下の通り。バンガロール(カルナタカ州)→アナントゥプール(アンドラ・プラデシュ州)→プーナ→ムンバイ(マハラシュトラ州)→ダンディ→アーメダバード(グジャラート州)→ジャイプール(ラジャスターン州)→アグラ(ウッタール・プラデシュ州)→ファリダバード(ハリヤナ州)→デリー→ルディヤナ→アムリットサー(パンジャービ州)→ワガ国境(アタリ) 2nd Dandi March〜第二の「塩の行進」 Peacebycycleはマハトマ・ガンジーが行った「塩の行進(Salt Sathyagraha)」の第二の行進だ。1930年4月に「塩の法」に反対し、グジャラート州のアーメダバードからダンディまで241マイル(385.6km)、78人の同志と共に塩の行進を行った。ガンジーは述べている。「空気と水の次に、塩はおそらく生活にとって最も必要なものであろう。塩は貧しい者にとってはたった一つ頼りにできるものだ。牛でさえも塩なしでは生きていけない。」PBチームは、彼らが集まった場所でアラビア海の塩水を手にすくう。その地に立った私たちは非暴力の精神とその歴史を感じた。ダンディには小さな海岸町でガンジーを記念したミュージアムとガンジーが塩を置く像がある。 ワガ国境;Wagha Border パンジャーブ州国境町アムリットサーからワガ国境まではおよそ30km。アムリットサーにはシク教徒の本山であるゴールデン・テンプルが神々しく輝いている。国境までの道は以外と田舎道で、農業がされていたり、ちらほら民家が立ち並んでいる。しかし、国境まであと10kmの地点まで来ると突然、戦車や軍事トラックが立ち並び、広大な軍事基地が目に入ってくる。国境防衛軍(Border Security Force)が駐留する軍事地帯だ。そこの前を私たちは胸躍る興奮の気持ちで駆け抜けた。「Lahore(ラホール)47キロ」、という看板が目に入る。パキスタンはすぐそこだ!国境2キロまで来ると、国境を毎日渡っては帰ってくる商業用のトラックがずらりと列を作っているのが見えた。すると、Custom(税関)とImmigration(入国)のオフィスが見えてきた。ここが国境だ、と思うとそうではどうやらなく、夕方4時に“公開される国境”へ案内された。インドの国境軍人たちはカーキー色の軍服に白いブーツを履き、赤と緑の混じった洒落たベレーを被っていた。彼らに導かれて“国境”に入ってみると、そこは一つのスタジアムだ。 円形スタジアムで真ん中が“国境”なのだ。反対側にはパキスタンの文字、ウルドゥ語の文字と緑と白で三日月が刻まれた国旗が翻っているのが見えた。あちらはパキスタン。こちらはインド。パキスタン側は半径の右側に女性が、左側に男性の郡が座っている。インド側では、国旗を持った子どもたちが国境の手前まで走る儀式がにわかに始まっていた。そして、なにやら有名なボリウッド映画のヒンディー音楽が流れ出した。子どもたちがスタジアムの席から飛び降りてきて、ディスコ状態となる。国境でダンス!なんともインドらしい。ボーンフリーの子どもたちも輪に加わり踊り狂い出した。私たちはなんとも言えない歓喜と興奮に包まれ、インドの国旗を振ったり、踊ったり。 それが終わると今度は軍人による掛け声が。「Bharata Mat Eki(インドは一つ)」と掛け声がかかると「Zindabad」(万歳)。これに反応するかのようにパキスタン側もマイクを通して「Ziyo Ziyo Pakistan」(パキスタン万歳)!」と叫びが聞こえだした。ボーンフリーチームは“Indo Pakistan Friendship Zindabad!”と叫び出すと、すぐに軍人が止めにきた。そこでジョン・デバラジ(ボーンフリーのディレクター)はPBの目的やパキスタンの友人に会いに来たことを伝えた。 いよいよ国旗セレモニーが始まった。インドもパキスタンの軍人も足を高らかに上げ、アグレッシブな動きを見せる。国の強さを誇張するかのようだ。その一つひとつの動きに対して、緊張と興味が多くの人の中で交差されているのが伝わってくる。一瞬だけ国境の両ゲートがオープンし、両国の軍人が握手を交わしたその瞬間、大歓声が上がった。そして、両国旗が交差して降ろされる。その交差した瞬間、会場はまた歓喜と興奮に包まれた。セレモニーはおよそ40分続いた。インド側はセレモニーが終わった途端、国境ゲートに押しかける人、また人。硬いセキュリティを切り抜けることはできないがそれでもゲートを見ようと好奇心の塊たちは国境に近づこうとする。 何とか私たちも近くに行くと、私たちに会いにきたパキスタンの子どもたちが手を振っているではないか。 近くて遠い人たち。その瞬間は非常に感動的であったが落胆もさせられた。私たちは握手をすることも言葉を交わすことも許されないのだ。ただただお互いの姿を見ようとする平和を強く願う同じ人間が線を分けて立っていたのだ。国境に来た瞬間、インドとパキスタンの分離の歴史の重さを感じさせられずにはいられなかった。 気持ちの高揚が収まらない中、国境軍人に「平和か戦争か」という直接の質問を投げかけることができた。軍人たちは「個人的な意見は述べられない。自分たちのミッションは国を守ること。」と一点張り。最後に一人の軍人は「Shanthi Chai Hai(平和が欲しい)」と本音を言った。実は、国境のセレモニーのあと、どうやら両国の兵士たちは密かに同じ杯とタバコを交わすとのことだ。国の面前、あのアグレッシブな軍隊行進がなされているのか。 国境を越える人たちの後ろ姿を私たちは眺めていた。その中には家族で渡る人たちを大勢見た。インドの親類を訪ねて来たのか、パキスタンの親類を訪ねに行くのか、仕事で行くのか、などなど想像は巡る。デリーとラホールを結ぶ直通バス“フレンドシップバス”と呼ばれているバスの通過は厚い警備とともに国境を渡る。バスの中の人がスタジアムにいる人たちに手を振り、それに応えるインド人たち。 国境に並ぶ露店で仕事をする多くの人たちは昔パキスタン側に土地を持っており、分離の際にインド側に渡った歴史の人たちでもある。夕暮れに、そこでチャイを飲んだが、パキスタンの紙幣をくれるとのこと。インドの5ルピーを渡すと5ルピーのパキスタン紙幣がかえってきた。紙幣にはパキスタンの最初の総督ムハンマド・アリー・ジンナーの顔が印刷されていた。このジンナーこそが分離を推し進めた人なのだ。 人びとの助け PEACEBYCYCLEは多くの人たちの助けによって支えられた。泊まる場所は学校、ヒンズー教、シク教の寺院、たまに結婚式場、NGOのトレーニングセンターなど様々であった。そこで食事や宿泊をただで提供して下さったことも大きな助けであった。また、行く道途中多くの人に何をやっているのか、どこにいくかなどと尋ねられた。それに対して目的やPBのコンセプトを話すと、ただでチャイやお菓子をふるまってくれたり、その場所で1ルピーや10ルピー、たまに100ルピーと寄付をして応援してくれる人に出会ったり。実は、自転車会社より自転車を寄付してもらう予定で話し合いを1年半も続けてきたにも関わらず、PBの10日前に突然の断りを告げられた。 財政的には非常に厳しい状況でPBは始まったが、食事と宿泊に関しては多くの団体から協力を得ることができ資金をセーブすることができたと思われる。 ヒロシマ・ナガサキ〜啓発活動 PEACEBYCYCLEで訪れた都市では、原爆を劇化した「白い花」の公演をアーメダバード、デリー、アムリットサーの学校で行った。また、路上でストリートパフォーマンス(マイムや音楽)、平和演説をボーンフリーの子どもたちが行ったり、原爆の写真を学校で貼り出したりもし、多くの子どもたちに原爆の歴史を伝えることができた。 PEACEBYCYCLEは多くの人たちの助けなしには成し遂げることはできなかった。それは、多くの人たちが平和を望み、子どもたちの将来に希望を見つけたいからこそ、PEACEBYCYCLEを応援してくれたのだと理解している。33日間、ボーンフリーの子どもたちの強さを感じ、また彼らの喜びや興奮を一緒に分かち合うことができた。インド・パキスタンの平和を切実に願う何千という人に出会い、PBの意味とインパクトを感じ取ることができた。誰もがこのドリームワークを成し遂げられるとは思っていなかっただろう。しかし、それを成功に導いたのはボーンフリーアートスクールの子どもたち一人ひとりであり、周りから支えた若者のパワーだったと思う。 PEACEBYCYCLEをやっている最中から次のPEACEBYCYCLEの話が持ち上がり出した。つまり、これは始まりであって、決して終わりではない。今年2009年4月13日インドの独立に血を流したインドの革命的ユースアイコンであるバガット・シンの没日にバンガロールPEACEBYCYCLEを行う予定だ。また、8月6日〜9日のヒロシマ・ナガサキデーを今年も行い、ナショナルレベルでの子ども平和会議をバンガロールで予定している。PEACEBYCYCLEの運動精神がもっと世界へ広がるよう、戦争の死者の声が一人ひとりに届くようPEACEBYCYCLEを今後も精力的に続けていきたい。 2009年1月6日 |